“ 昨日せっかく捕まえたブリトニーは朝になると消えていた。たぶん、死んでしまったのだと思う。野生のブリトニーは飼育に適さない。ちょっとしたことで姿を消してしまう。そうなのだ、死後すぐに腐敗が始まるブリトニーは、往々にして屍骸すら残らない。空っぽの水槽を眺めてぼくはさめざめと泣いた。 ”
“ ブリトニーは常時陰茎をくわえていることから非衛生の象徴の様に扱われがちですが、奇跡的に累代飼育に成功した個体は清潔そのもので、横を通ると甘くていい匂いがするし、こんなに冴えないぼくなのにニッコリ微笑んでくれるし、陰では「男って本当にバカね」とか言う。 ”
“ ていうかマジックテープのかっこよさがわからんやつは「おっさんが軽トラに乗り込んで「畜生…」いいながらセッタ咥えて、エンジンかけつつチャッカマンに手伸ばし、車と人間のイグニッションスタートして発車」のかっこよさがわからんだろ。 ”
“ あとおなじバス停のベンチに座ってるにーちゃんがラブプラスやってた。ファッキングローバリゼーション。だがオタクが遍在するというのは心強さでもあるのだ。ここではないどこかへ行っても、ぼくらはどこかでつながっていて、そして見知らぬ場所でまためぐり合うという。 ”
都会の夜というのは不思議なもので、いつになっても慣れることのできないものだと考えながら散歩することが彼の日課であった。ほんとうにそのこと、あるいはその周辺のことしか考えられないのだ。都会の夜の空はいつも薄く靄がかかったようで、それが余計に空気の透明さの印象を強める。だいたいにおいてそうなのだ。彼が最初に思いだすのはビルとビルの隙間で嘔吐した日のことだった。その日はとてもあたたかく、ただし、暖かいことをまるで免罪符として扱われているような夜だった。壁にしがみつき、下を向いて数分のあいだ体の内側のことを考えたあと、吐いた。彼にとってそれほど珍しいことでもなかったのだけれど、その日は不思議に体が上気していて、すこし空を見上げてみようという気になったのだった。そのときに見た夜の空と空気があんまり不透明に透明だったものだから、というのがこのような散歩を日課にする理由である。
男は夜のマクドナルドでラップトップを前に物語というなにものかを生みだそうと今日ももがいていた。そこは店の外で、テーブルが5つ並んだ真ん中あたり、目前をたくさんの人が通りすぎていった。男はどうにかしてそこを物語が通りすぎてくれないかと願っていた。もう自分の頭で考えることはとうの昔にあきらめていたし、もちろん物語をかきつづけることで身を立てようなどという夢は、文字通り、いつかみた夢のように細部はあやふやで、ときおり取りだしてはさわってみる程度のものになっていた。物語が通りすぎるのがみえたら、とっつかまえてやろう、今はもう、そのためだけにマクドナルドにいるのだった。
物語がほんとうに、実体としてそこに現れるわけがないことに気付いた男は、その目を前へ向けながらも、不透明な空気を透かしているような眼差しをしていた。ずいぶん長いあいだ家とマクドナルドの往復しかしていないことからくるのだろうか、ずっと、ずうっと晴れることのない靄のかかった頭脳で、男は、物語の到来を待ちつづけているのだった。
「ねえ、お父さん。なにかおはなしして!」
ほんとうにおそれていたのはその言葉で、僕にはどんな「おはなし」も頭に浮かばないものだから、知るかぎりの昔話を切っては貼り、切っては貼ることで、娘が寝つくころには頭だけじゃなく、身体じゅうが、鉛が流しこまれたんじゃないかと思うほど重くなるのだった。それは僕がずっと持ちつづけていた夢の重さなのだ。
男の前を通りすぎる物語以外のすべてにはそれぞれの歴史があったのだけれど、彼はそれを想像しようともしなかった。いまこうして座った足の冷たさとおなじように、それは物語としてどうしても立ちあがろうとはしてくれないように思えたからだった。言葉と言葉はささやきあい、ときには手をつなごうとしているのが見えるのだけれど、それきりだ。すべての言葉がうまくくみあわさって、物語として立ちがる(男はこの「立ちあがる」という言葉が好きだった)ことなんて、永遠にこないことのような気がした。閉じた系ではエントロピーは増大していくばかりなのだからと、こうしてマクドナルドにいる理由をみつけているあいだにも、物語は見あたらなかった。店内にいるのかな、と後ろを振りかえってみてもおなじことだった。
なかなかウケたもんだな、と娘の寝顔を見ながらひとりごちた。そのときの僕はすこし笑っていたとおもう。このぶんだと、明日の夜には、脇役の彼についてのお話を聞かせてほしいと言われてしまうんだろうな。そのときの僕はすこし笑っていたとおもう。この暖かさはいつまで続くのか、ふと不安になり、それがつづくかぎりけっきょく僕の夢はかなえられないのではないかと、なぜか感じた。
こうして外で眺めつづけるのにも寒すぎる季節である。男はラップトップを閉じいつもの鞄に仕舞いコーヒーの残るカップを持ちあげごみ箱へ向かうと、ようやく見つけた。おそらく他の誰の目にも見えなかったのだろうが、彼にだけははっきりと見えた。ごみ箱のそばに、ガラスのウィンドウにもたれかかった物語をみつけたのだった。すっと風がふけば消えてしまいそうな存在感をもちあわせた物語をそこにみつけたのだった。物語は待っていたよとも言いたげな仕草で男を見つめ、もちろんのこと、男はすぐに袖をつかむ。いままでどこにいたんだ、どれだけ僕が君のことを待ったと思っているんだ。僕がどれだけ苦しい思いをしたか知っているか。もう逃がさないぞ。家につれて帰って、じっくり観察してやろう。そして僕はようやく自分の物語をつくりあげるんだ。男はひといきでそう言って、すぐに家路についた。横を通りすぎる人たちはみな、とても不思議そうな顔をしていた。物語がどんな顔をしているか、男は見ようともしなかった。物語はなにも言わなかった。
それにしても信じられないな、これまでの人類の歴史のなかでほんとうに沢山の物語がつくられてきたというのに、僕にはそれが、まったくつくれないなんてことは。ほんとうに信じられないのだった。そのとき僕はもう笑ってはいなかった。ほんとうに不思議に思ったのだった。もちろんそう願わないひとたちだって沢山いただろうけれど、僕はそうじゃない。こんなに願っているというのに。
都市伝説があった。曰く「陰茎の勃起しない男が無意味なつぶやきを宙に放っている」「目は虚ろで耳は聾である」「糞を垂れ流している」「気持ち悪い」「キモチワルイ」「きもちわるい」きもちわるい。きもちわるいきもちわるいきもちわるい。
現代を日本にした都市伝説に関していえば、そのほとんどはおそらく、事実は都市伝説よりも奇なり、という言葉が当てはまるであろう、そのくらい、現代の日本とは、あるいみで荒廃した、あるいみでは興味のつきない社会となっていると言うことができる。この男の噂にしたって、無論そうなのだ。陰茎の勃起しない男がつぶやきを宙に放っている、という言は全く間違ってはいないのだが、その内容はむしろ、過剰な意味を孕み、かつ、我々のような一般人が日常で耳にするどんな言葉より品のないものであった。その言葉の数々をここに記すことは筆者の本意ではない。常人には意味を解せない下品極まりない言葉の数々をここに並べても、むやみにこの書の品位を下げることにしかならないし、それを解説しようと思えば、ひとつのつぶやきにつき、一冊の書物が出来上がってしまうにちがいない。したがってここでは、その男の生態についてごく簡単に述べるにとどめる。私にはそのよう解説書を世に出すという密かな野望があるのだが、それもこの本の評判如であろう。
前置きが長くなってしまった。そろそろ本論に入らねばなるまい。以下は都市伝説そのものについてのフィールドワークに加え、たった一度、「彼」と接触した際の会話に強く依拠するものである。後述するが、現在では「彼」との接触はもはや不可能と言ってよく、そういった意味でもこの書は大きな資料的価値を持つと言ってよいだろう。
この都市伝説の歴史はそれほど古いものではない。私の取材の及ぶかぎりその出どころは未だ不明であるが、ここ1-2年と言って差し支えないと思われる。筆者が行きつけの喫茶店でその噂を耳にしたのもほんの1年ほど前のことであり、その時には既にこの地域の女子高生の間ではほとんど常識と言っていいくらいには知られた話であったようだ。じっさい、この事実は「彼」がこの地域を盛んに歩きまわり始めたと主張する時期に一致している(以下の「彼」との会話についても同様だが、彼との会話による意思の疎通は困難を極め、ここに記す事柄についてもそのほとんどは後の筆者による解読によってはじめて明らかになったものである)。その後「彼」がこの街から消えて既に二ヶ月が経過しているが、この都市伝説は消えてしまうどころかむしろ奇妙な尾ひれをつけられ、現在も絶賛流通中といったところだ。
さて、都市伝説によれば「彼」の出現する場所は「夜の○○公園«※引用者註:場所の特定を恐れたのか何者かによって墨で消されている。以下随所に出てくる○○も同様»」「夜の○○商店街」「駅近くの高架下、しかも夜だけ」の三ヶ所が際立って多く、いずれも時間帯は夜に限られている。より詳しい噂話になると時間帯はさらに限られ、おおよそ午前0時前後と言われていることが多いようだ。これは当時の彼の行動範囲と照らし合わせてみれば当たらずとも遠からずといったところで、実際にはこの地域全体を深夜のうちに隈無く歩きまわっていたのであるが、そのなかでも人通りの多い場所に目撃証言が集中したというのが真相であろう。余談ではあるが、筆者自身は女子高生のようなうら若き乙女たちがこのような時間帯に出歩くという昨今の社会情勢を憂う者の一人である。
電車に乗るとなにか面白いものが見られる、というのは彼の弁で、僕はこの言葉をそのまま信じているわけではないのだけど、なんだかどうしようもないな、なんていう気分になったときに僕はつい電車に乗ってしまう。こんなふうにくすぶっている僕はもちろん生活をしているだけ、生活しかしていないのだけど、生活じゃないなにかをしている人なんてほんとうはどこにもいないのかもしれない。すくなくとも電車のなかには生活しか存在していないように、僕には思われる。
たとえばあの、3人の子供たちを連れた女性を見ていると、ある人にとっては名画のワンシーンのように見えてくるかもしれないその母子を見ていると、これが彼らの長い永い生活(もっと誠実に言うならば、おそらく長くて永いのだろう、としか言いようがないのだけれど)のほんの一端を切りとったものでしかないということに気が遠のきつつも、その瞬間だって生活の一部であることに、月並に感じ入らざるをえない。まあ、基本的には、電車のなかはそういうもので溢れかえっているのだということを、僕は信じている。
かたや電車のなかの自分はどうだろうと振り返ってみると、僕にはどうしても、いまこの自分が生活をしている最中なんだとは、とても思えない。自分という人間にたいしては、生活なんてものはないのだと、まず考えてしまう。車内のほかの人たちからしてみれば、おそらくは、僕だって生活というものを1秒1秒おこなっているのだということになるのだろうが、そこは主観と客観の差ってものがあって、とにかく僕にとっての僕はこの車内で唯一生活というものが欠けた人間だということになる。
そんな考えの連鎖は、彼女に唐突に話しかけられることによって、ぷつりと途切れてしまったのだが。
いや、自慰をはじめたのはそれほど早いほうではないと思うのだけど、それでも、性の目覚めのようなものに関しては日本人のなかで上位10パーセントに入るくらいには、早いんじゃないかと思っている。とにかく、異性を恋愛(のようなもの)の対象として見はじめ、それを自覚しはじめてから、その心象に悩まされたその時間と密度はけっこうなものであると自負している。その時間と密度は、慣れを促進するためのものではなく、糸を余計にほつれさせるためのものだったわけだが。そんな僕が電車のなかで知らない女性から話しかけられたというのだから、それなりに尋常な心持ちではなかったことを想像していただけるのではないだろうか。
「あの、すみません、ムラシットさんですよね」と彼女は言った(最初の「あの」の部分で既に動転しはじめていたものだから記憶が曖昧なのだけれど)。それから僕は彼女の全身を下から上のほうへと見上げていったのだけど、黒いストッキングになんの変哲もないスーツを着た、すこしだけ造形のくずれた美しい顔をもつその女性は、僕にとっては初対面であるはずの人間だった。そんな彼女がどうして僕のことを知っているのかということや、もしや僕が忘れてしまっているのだろうかということを考えているうちに車両は田端に着いたのだけれど、さすがにそこで乗り換えるわけにもいかない。車内の空気が入れかわるだけの時間を無言でやりすごしたあとに「え、あ、はい、あ、えっと、そそ、そうです、あの、はい」。
人と関ることによって、僕はまさに生活をしている状態に戻ったのだなあと思いながら相手の言葉を待っていたのだけど、彼女はそのまま姿勢を変えることなく僕の前に、吊革を持ちながら突っ立ったままだ。これは非日常ではあろうが、まさに生活そのものな状況なのだろうと考えながら、同時に何か訊かなくちゃならないのだろうなという義務感に駆られ、果たしてそのとおりにする。「えっと、はじめまして、ですよね?」